みどりの旅路

実務と研究から自然と文化をたどる共生論・多様性論

今日はバレンタインデー、チョコの話をしよう

今日はバレンタインデー

そこで、予定(「上橋菜穂子『香君』を生物多様性の視点で読んでみた(2)」)を急遽変更して、チョコレートの話にしたい。

といっても、過去記事の再編集なのでご容赦を。
これって、最近のNHK番組並み?

 

 

チョコレートのふるさと

チョコレートの原料カカオの原産地は中米で、紀元前の古代、アステカ文明マヤ文明の頃、あるいはその前から栽培されていたともいわれている。

糖質に富んだ果肉とともに発酵したカカオ豆は、露天で乾燥した後に粉砕、焙煎され、トウガラシやバニラなどの香辛料とともに熱湯で混ぜられて、晩餐会などの飲み物になったという。

少なくとも、マヤ文明が栄えた頃にはカカオ豆からチョコレートが造られていたのは確かなようで、もともとは薬として珍重されていたようだ。

そして、貴重なうえ、軽量で耐久性もあるカカオ豆は、交易の際に金の代わりの貨幣代わりにも使用されていたという。

マヤ文明の都市ウシュマル遺跡(世界遺産)(メキシコ・ユカタン半島)。現在ではジャングルの中に埋没して点在している数々の遺跡は、雲間に浮かぶ天空の城ラピュタを彷彿とさせる。

ここウシュマルでも、古代の人々はチョコレートを味わったのだろうか。

 

左:魔法使いのピラミッド
右:総督の館(奥)と生贄の心臓を置く台チャックモール(手前)

ヨーロッパ列強の征服

貨幣代わりに使用されたカカオ豆は、ラテンアメリカ全体に広まった。

しかし、チョコレートを既に造っていたマヤやインカの大帝国も、スペイン人などの征服者(コンキスタドール)によって破壊され、滅ぼされた。

インカ帝国の首都だったクスコ(世界遺産)(ペルー)では、隙間には剃刀の歯さえも入らないという堅牢なインカの石積みの上にキリスト教教会やコロニアル風建物が建設された。
コンキスタドールでさえも、堅牢な石積みを破壊することができなかったのだ。

 

中央部の黒っぽい平滑な石積みがインカ時代のもの(クスコにて)

トマトやジャガイモ、カボチャなど多くのラテンアメリカ原産の作物とともに、チョコレートもヨーロッパに伝えられた。

しかし、原料となるカカオは、トマトやジャガイモのようにヨーロッパで栽培されることはなかった。

カカオは熱帯性の植物だからで、ヨーロッパに原料を供給するために、原産地のラテンアメリカには、ヨーロッパ人によるカカオ農園が開かれた。

農園といっても、日陰を好むカカオの木の性質から、大規模な開けたプランテーションではなく、里山的な多樹種と混在した栽培が適しているようだ。

 

カカオ栽培の世界伝播拡大

ラテンアメリカの農園での病害発生でカカオの生産が落ちると、今度は同じくヨーロッパ諸国の植民地だったアフリカに生産の場が移った。

新たな生産地は、アフリカの中でもまだ植民地化の進んでいない中央アフリカや西アフリカが中心で、カカオ農園での労働は奴隷が担った。

19世紀の帝国主義の時代、ヨーロッパ列強による植民地の争奪戦が繰り広げられたが、チョコレートもこの争いに組み込まれていったのだ。

現在の高級チョコレートで有名なベルギーも、この争奪戦によってアフリカに植民地(コンゴルワンダなど)を獲得した国の一つだ。

世界のカカオ豆生産量第1位のコートジボワールは、かつて象牙海岸とも称されたフランス領西アフリカだった。

日本でチョコレートの製品名称にも付けられているガーナは、植民地となった西アフリカ黄金海岸の地域で、独立後の現在では世界第2位のカカオ豆生産国だ。

 

インドネシアのカカオ栽培

カカオの生産地はアフリカ、なかでもガーナが有名だが、東南アジアにも伝播した。
インドネシアは世界第3位の生産国だ。

インドネシアスマトラ島にあるカカオ果樹園を訪れた。

カカオ豆は、カカオの木の幹から直接垂れ下がったように付いている20〜30cmほどのラグビーボールのような実の中に詰まっている。
幹に直接付いているような実の付き方は、ジャックフルーツなど熱帯果実には多いが、日本の果実を見慣れているとちょっと驚く。

カカオの赤黒く熟れた実を割ると、20〜30個ほどの白い果肉が顔を出す。
この果肉、食べるとほのかな甘さがある。
カカオ農園で果肉を食べた時、農園主に中の種子を捨てないように注意された。

この種子がカカオ豆だ。
このわずかな豆が、チョコレートの原料となるから貴重なのだ。

下の写真のように、カカオ豆の断面を見ると紫色だ。
チョコレートにポリフェノールが豊富なことを物語っていそうだ。

幹からぶら下がるカカオの実(インドネシアスマトラ島ランプン州にて)

 

カカオの白い果肉とその中のカカオ豆の断面(下の紫色)

チョコレートの製造

カカオは、前記のとおり原産地のラテンアメリカでは飲み物として利用され、チョコレートとはいうもののヨーロッパに伝わった後も飲料だった。現代の日本で私たちが飲むココア飲料のような飲み方だ。

アール・ヌーヴォーを代表する作家の一人アルフォンス・ミュシャ(1860〜1939)のリトグラフ(版画の一種)の作品。
「ショコラ・イデアル(チョコレート・アイデアル)」(1897年)という独特の淡い色彩の宣伝ポスターの中央には、湯気の立ち昇る三つのチョコレートのカップを盆に載せた母親と、その足元に駆け寄る二人の子供が描かれている。
商品は、六カップ用のカカオ粉末だ。

ということは、少なくとも19世紀末にはまだ、チョコレートといえば引用だったということだろう。現在でも、ラテンアメリカや北米、ヨーロッパでは、飲み物の「ホット・チョコレート」に人気がある。最近では、日本のカフェなどのメニューにも登場している。

 

アルフォンス・ミュシャ「ショコラ・イデアル」(小田急百貨店ミュシャ展にて)

現代の日本で目にするようなチョコレートの製造は、オランダのカスパルスとコンラート・Jのバンホーテン(ファン・ハウテンとも)親子の発明が契機となっている。

彼らは、脂肪分の少ない粉末チョコレート、すなわちココアパウダーの製法(1828年に特許取得)とアルカリ塩を加えて飲みやすくする製法(ダッチプロセス)を開発した。この親子こそ、現代に続くココア製造会社バンホーテン社の創業者だ。

その後、イギリス人ジョセフ・フライによって固形チョコレート、現代で言う板チョコが発明された。

さらに、スイス人科学者アンリ・ネスレネスレ社創業者)の粉ミルク製法開発、これを利用したスイスのチョコレート製造業者ダニエル・ペーターによる板状ミルクチョコレート開発などにより、徐々に現代のチョコレートに近づいていった。

 

チョコレートの現代

ヨーロッパ列強は、20世紀に入ってもカカオ生産による利益を求めて、アフリカだけではなく東南アジアなどでも栽培を広げた。 

また、中国やインドなどの経済力向上に伴い、これらの国でのチョコレート消費量も伸び、最近ではベトナムなど新たな地域での良質豆生産が注目されている。

一方で、世界各地で生産が拡大したカカオ豆の価格は、近年では急暴落している。

その理由の一つは、ロンドンなどのカカオ市場でグローバル企業や投機家たちが少しでも低価格のカカオ豆を買付けようとすることによる価格競争だ。

また、先進国でのコマーシャリズムによる、チョコレートからキャンディーなど他商品への嗜好変化によるカカオ豆消費量の減少もある。

ガーナのカカオ農家は以前は安定した収入を得られたが、価格暴落により現在では経営できなくなり、首都アクラなどの都会には農村から出てきた職のない人々やストリート・チルドレンがあふれているという。

最近では、こうした生産地の人々の生活向上や環境保全にも配慮して、原料や製品を適正価格で継続的に買い付けて流通させる「フェアトレード」の仕組みが注目されている。

これが、地球上の誰一人も取り残さずより良い世界を目指す、2030年までに達成すべき17ゴール(目標)を示した「持続可能な開発目標(SDGs)」に合致する仕組みであり、経済・社会・環境のそれぞれを調和させ、先進国も含めたすべての国、さらには企業や自治体、市民一人ひとりが取り組むべき行動だ。

私たちがバレンタインチョコを選ぶときに、単に味わいやデザイン、ブランドイメージではなく、製品となるまでの原料生産(カカオ生産)から製造過程、さらにパッケージなどの廃棄処分までも考慮することが、SDGsの達成には求められるのだ。

バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣は、日本のチョコレートメーカーが販売促進のために考案したとの説がある。

バレンタインチョコを食べながら、過去そして現代、未来を考えてみるのも良いだろう。

義理チョコでさえ、バレンタインチョコをもらう当てもない私だけれども・・・・

 

この記事のネタ原稿は、例によって拙著『生物多様性を問いなおす 世界・自然・未来との共生とSDGs』(ちくま新書

目次等は

bio-journey.hatenablog.com