インドネシア訪問中の天皇皇后両陛下は、2023年6月19日、ボゴール宮殿での歓迎行事の後、ジョコ大統領自ら運転するカートで隣接する植物園を巡られた、と報じられた。
ボゴール宮殿は、ジャカルタから60kmほど南のボゴール市にある大統領離宮だ。
オランダ植民地(オランダ領東インド)時代の18世紀から19世紀にかけて建設改修が行われた植民地総督の別荘だった。
オランダに代わって一時的に大英帝国の植民地となった1811~1816年の間は、シンガポール建設で有名なトマス・スタンフォード・ラッフルズ総督も、バタヴィア(現、ジャカルタ)の猛暑から逃れて冷涼な宮殿によく滞在した。
彼は、宮殿に連なる土地を本国のキューガーデン(王立キュー植物園)から呼び寄せた庭師によってイギリス式庭園として整備したほどだ。
この庭園を妻のオリビア・マリアンヌ夫人と散策するのが何よりもの楽しみだったようだ。
しかし最愛の妻オリビアは、病により1814年に亡くなり、ラッフルズは傷心の中、妻がこよなく愛した庭園に白亜の記念碑を建てた。この記念碑は、現在でも植物園の入口近くに残っている。
ラッフルズ夫妻が整備し散策したボゴール宮殿に連なる47ヘクタールの庭園は、再びオランダ領となった1817年に、ドイツ人カスパー・ゲオルグ・カール・ラインヴァルトによってボゴール植物園として再整備された。
オランダ領なのにドイツ人? 彼はアムステルダムで植物学を含む自然科学を学んだとかで、江戸時代に来日したドイツ人シーボルトもオランダ商館の一員だったから、この時代にはよくある話だったかも。
植物園には、世界各地のオランダの植民地から作物や薬草など様々な植物が集められた。
プラントハンターが活躍した大航海時代には、植物園とは植民地からの珍しい医薬品や換金作物を本国オランダに送るための実験農場、気候馴化の中継地でもあったのだ。
1848年には西アフリカから4粒のアブラヤシ(オイルパーム)の種子がボゴール植物園にもたらされ、現在の東南アジアでのアブラヤシ・プランテーション造成の契機となった。
植物園の4本のアブラヤシのうち最後の1本も、1993年には枯れてしまった。
第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1942年以降はインドネシアが日本の支配下となり、植物園長も日本人植物学者の中井猛之進が務めた。
名称も日本語のShokubutsuenと変わった。
この間には、軍部による木材調達のための樹木伐採要求もあったが、中井園長らはこれに抵抗し、植物園の樹木は守られた。
この結果、現在の植物園には、巨大な板根を有するフタバガキ科やカンラン科などの巨木をはじめ、多数の熱帯植物などが残っており、東洋で最大規模の熱帯植物園となっている。
天皇皇后両陛下が、ジョコ大統領の案内でどんな植物をご覧になったかは不明だが、多数の園内植物から、ほんの一部の写真をご紹介。
ほかにも、釣鐘型のウリの実の底からグライダーのようにフワフワと滑空する翼を付けた種子を次々と飛ばすアルソミトラ、フランクフルトソーセージにそっくりの実をぶら下げる、その名もソーセージの木、白い大きな苞葉がハンカチにそっくりなハンカチの木、星の王子様で有名なバオバブ、世界最大級の臭い花ショクダイオオコンニャクの数十年ぶりの開花、1本の巨木に数えきれないくらいに群がってぶら下がっている大きなフルーツバット(コウモリ)などなど、目を閉じると園内の光景がよみがえる。
実は私、JICA生物多様性プロジェクト初代リーダーとして、ボゴールに3年間滞在したことがある。
このうち、1年以上はボゴール宮殿のすぐ裏手にある植物園内建物のオフィスに通い、昼休みには園内をよく散歩したものだ。
しかしその頃は、目の前の仕事をこなすのが精一杯で、現在の東南アジアの森林破壊の元凶となっているアブラヤシの導入が、このボゴール植物園だったとは夢にも思わなかった。
大航海時代のプラントハンターと植物園が果たした役割、ボゴール植物園の園長が日本人だったことなど、ご興味のある方は拙著『生物多様性を問いなおす 世界・自然・未来との共生』(ちくま新書)をご覧ください。
植物園の話は、
第1章 現代に連なる略奪・独占と抵抗
1植民地と生物資源
西洋料理とコロンブスの「発見」/ヨーロッパの覇権/チョウジと東インド会社/プラントハンターと植物園/日本にも来たプラントハンター/日本人が園長 ボゴール植物園物語/ゴムの都の凋落
オイルパームの話は、同じく第1章の
2熱帯林を蝕む現代生活
そのエビはどこから?/東南アジアのコーヒー栽培/インスタントコーヒーとルアックコーヒー/ほろ苦いチョコレート/日本に流入するパームオイル/地球温暖化と生物多様性/熱帯林の消失